近所にある琉球
まったくの、歴史に素人で浅学な自分が、歴史のことを書くのは怖いのですが、単なる興味本位な話として
身近くにあった歴史や文化の気になった遺産を、時代の流れもまちまちですが書いて行こうと思います。

那覇市天久の先樋川(サチヒージャー)べーべー嶽
天龍大御神【てんりゅうおんおおかみ】が祀られています。
岩をくり抜いた中に石の碑が安置されています。
その岩を包み込む様に木が根を張っています。
石の碑が見える様に根は切られています。

周りもキレイで、拝んだ跡が進行形で残っています。
とても長い年月大切にされ、ここにあるのでしょう。

天龍大御神の碑
わきに、主父御神と
龍泉乃神の
文字が刻まれています。
ずっと気になっていて、そのうちに何者か解るだろうと思っていたのですが、
インターネットで検索しても、ピントきません。

神社2社に祀られている事と、日本神道で言えば【イザナギ・イザナミ】キリスト教で言えば【アダムとイブ】にあたる神様、としか探せませんでした。
沖縄民族の祖先・創世の神アマミキヨとシネリキヨの物語との関係はどうなっているのでしょうか。

琉球八社の天久宮・沖宮に御祭神として祀られています。

天久宮 御祭神
天龍大御神 天久臣之姫大神 泊龍宮神 弁天負泰彦大神 弁財天
伊弉冉尊 速玉男神 事解男神

沖宮 御祭神
相殿左の御座 神代一代
父御神 天龍大御神
母御神 天久臣乙女王御神
天芳子乙女王御神・天仁子乙女王御神・天来子乙女王御神

沖縄の古い歌謡『おもろさうし』(1531年〜1623年首里王府編纂)にアマミキヨとシネリキヨの兄妹2人は結婚し、3人の男の子と2人の女の子をもうけた。との記載があるようですが、
琉球の最初の史書『中山世鑑』(1650年編述)では創成神は「阿摩美久」(アマミキヨ)ひとりで,その伝承では,むかし,天帝から島造りを命じられたアマミクが天降ってみると,下界は一面の海原だった。そこで天帝から土石草木をもらって多くの島々を造った。その後数万年を経て,天帝から1男1女を下しもらい,このふたりから地上の人々が生まれていった。と記されているそうです。
その『ふたり』のことでしょうか。
北部の古宇利島には、アダムとイブの伝承に似た言伝えも残っている様です。先島の石垣島や波照間島にも、最初の人間の話があるそうです。
那覇市天久のガマ樋川(ヒージャー)
天久神乙女王御神【あめくしんおとめおうおんかみ】
天龍大御神と対を成す神様みたいです。
龍神うみ賜ひ母神とあるので、龍神という子供もいるのでしょうか。
紋は宝珠みたいで、天龍大御神の右二つ巴とは違います。奥の方の2つ碑は三つ巴でこれとも違います。

マルミや円を意識された造形美で、癒してくれます。べーべー嶽の力強さと形でも対をなしているのでしょう。優しく、明るく感じられる嶽です。

私ぐらいの年(1955年生まれ)は琉球の歴史に疎い年代です。学校でも副本書を使って、1〜2時間教わったかな・・・程度です。
方言札の様な同化教育とか、戦争で多くの歴史資料を喪失した為かも知れませし、それどころの時代ではなかったのかも知れません。
多少ではありますが、知らなかった歴史に触れれることは、ドキドキ・ワクワクします。

天久臣乙女王神の碑
わきに、混比羅大明神と
龍神うみ賜ひ母神の
文字が刻まれています。
奥の方にも2つ碑があります。どのような関係なのか解りません。

水上特攻艇 格納壕

若い頃、知り合いのおじさんから、聞いた話ですが、
読谷村と嘉手納町の境の比謝川の下流、渡具知ビーチ側の岩山(泊城近く)の崖下に水上特攻艇(突撃自爆艇)の格納壕があったとのこと。はっきり文献等で確認できないのですが、現地を見ると、間違いないと確信してしまいます。

追伸2011.11.20--『読谷村の戦跡めぐり』のHPに載っています。
http://www.yomitan.jp/sonsi/senseki/index.htmlです。おじさんの話本当でした。
比謝川の嘉手納町水釜側、子供の日の鯉のぼりが対岸まで泳いでいます。その対岸が水上特攻艇格納壕の在る場所です。
水上特攻艇(突撃自爆艇)とは,木製小型モーターボートに爆薬を搭載して体当たり攻撃するもので、海軍では「震洋」、陸軍では「マルレ艇」と呼ばれていたそうです。
乗員1名の特攻艇は、艇首に250kの爆薬を装備し、自動車エンジン(トヨタ自動車80馬力の中古エンジン1基)を搭載した木造合板型(ベニヤ板)の高速ボートです。
敵の揚陸部隊が上陸点に侵攻してきた時、夜陰に乗じて奇襲による体当たり攻撃をする目的の兵器です。

慶良間列島に配備されていたのは、知れ渡った話ですが、
米軍の上陸場所である読谷にも格納壕があったとするのは納得できる話です。
下右の写真:突撃艇「マルレ」慶良間海洋文化館の展示。緑色の迷彩のため「アマガエル」と呼ばれることもあった。
下左の写真:水上特攻艇「マルレ艇」あるいは「震洋」の残骸。
HP『鳥飼行博研究室Torikai Lab Network』より転用

三山を統一した尚巴志王の墓

読谷村の米軍基地内の黙認耕作地に、尚巴志3代の墓があります。
ジャングル化した森の、崖の斜面の、ガジュマルの枝の隙間の、岩の窪みに、ブロックで塞がれたお墓があります。
三山を統一、琉球王国最初の統一王朝を成立させた英雄、尚巴志王のお墓です。
こんな形で、こんな所にあったなんて、驚きです。

そもそも、首里池端の広大な墓陵「天山陵」に、尚巴志王はじめ歴代の国王一族は葬られていたそうです。
尚円金丸派によって起こったクーデターで天山陵も焼き討ちにあいます。忠臣の平田之子、屋比久之子が遺骨を持ってここ読谷村に逃げ、安置したといわれています。
初代・尚思紹王は佐敷ようどれ、
2代・尚巴志王、3代・尚忠王、4代・尚志達王はここに、
5代・尚金福王の墓は浦添市城間一丁目にあるそうです。
6代・尚泰久王は、明治に入ってから長男の子孫がここから安次富グスクの隣りにお墓を移したとききました。
7代・尚 徳王の墓は、まだはっきり解ってないようです。

学生の頃聞いた話だと、尚円王即位は無血革命、無血クーデターみたいに教わっていたのですが、
とてもドロドロした出来事みたいです。
歴史ドラマ『テンペスト』の恨みも解る気がします。
首里城に「くんだ城」と呼ばれている場所があるそうです。「くんだ」は、ふくらはぎの意味です。
尚円金丸派によって起こったクーデターの時、10歳に満たない尚徳の世子は、母親や乳母に抱かれて城内の真玉森に逃げ隠れたそうです。金丸派に見つかり母子とも殺害され、王妃と世子の死体は首里城の崖下に投げ捨てられたそうです。
死体が放置されていたので、住民が拾い集めて葬ったそうですが、王妃のふくらはぎは崖下の木にひっかかっていたため、この場所を「くんだ城」と呼んだ。と伝えられています。
歴史は、時の権力者や後の支配者等に、正史として記録され統一理解を得るのですが、時代が認めたくなくても、残さないといけないとの思いや人情でしょうか、「くんだ城」などの呼び名・地名で、生き返る事実もある。ことを感じさせます。
1988年春だと記憶しているのですが、新聞に尚巴志王の墓、荒らされる。との記事が乗っていました。心ない者が骨壺を墓から出したみたいです。この事件のことは、よく解りませんが、
何でそんな場所に、尚巴志王の墓が有るのだろう。と強く感じました。
この年は私の長男の生まれた年で、沖縄の歴史に興味を持ち始めた頃です。
事件後、2年たった頃、米軍基地内の黙認耕作地に、オッカナビックリ彷徨うように探しやっと見つけたことを思い出します。
(写真は2011年の撮影です)


阿麻和利のお墓
読谷村古堅小学校のそばに、阿麻和利のお墓があります。
『阿麻和利・護佐丸の乱』で有名な勝連城主、阿麻和利です。
読谷の座喜味城は、ライバル護佐丸の居城(中城の前)、不思議で面白味を感じます。

阿麻和利は小さい頃、歩く事も両腕も利かない発育不良児であった為に、10歳の頃、山(北谷[嘉手納]の屋良、今の嘉手納高校・大蛇伝説の屋良ムルチあたり)に捨てられました。生き伸びて逞しく賢くなった阿麻和利は勝連に辿り着き、やがて勝連城主になります。
王府史書によると、
護佐丸が、不穏な阿麻和利に対抗するため兵馬を整え、
これを阿麻和利が、護佐丸に謀反の動きありと王府に讒言。
尚泰久王が阿麻和利を総大将に任じ、中城城を包囲すると、
王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず、妻子とともに自害した。
仇敵の護佐丸を除いた阿麻和利は首里を急襲するが、政略結婚で嫁いできた尚泰久王の娘百度踏揚(ももとふみあがり)と付き人の鬼大城がこの策略に気付き、脱出して王府に変を伝え、阿麻和利は王府軍によって滅ぼされた。

しかし『王府が阿麻和利を利用して護佐丸を討ち、後に王府軍が阿麻和利を討った』との説が今は正しいとされているようです。
護佐丸の娘が尚泰久王に嫁ぎ、その子供(百度踏揚)が阿麻和利に嫁ぐ政略が交差して、護佐丸と阿麻和利はおじいちゃんと孫の関係になります。
政略を用いる程、王府にとって護佐丸と阿麻和利は無視出来ない相手だったのでしょう。

阿麻和利は逆臣として王府軍に追われて、逃げる内に生まれ故郷の屋良の近くの古堅にたどり着いたのでしょうか。

『阿麻和利・護佐丸の乱』で誰が得をしたでしょうか。

『阿麻和利・護佐丸の乱』の翌年、金丸(後の尚円王)は御物城御鎖側に就任しています。
伊是名島を出た金丸は王叔だった越来王子(後の尚泰久王)の家来となります(鬼大城も家来でした)。
そして金丸は当時の王尚思達に推挙されて、王府に入ります。
尚思達王亡き後、金丸の推薦により尚泰久が琉球国王として即位します。
尚泰久の次に即位したのは嫡子安次富金橋、次男三津葉多武喜でなく、側室の子三男尚徳です。
尚徳王は若く29歳で謎の死をとげ、これをきっかけに尚巴志の築いた王朝は崩壊します。尚徳の世子の即位の席で、クーデターが起こり、王家の一族の粛清が始まります。鬼大城もこの激流の中で非業の死を遂げます。
尚泰久王、尚徳王の時代の実力者は金丸と後の法司.武實です。

なにやら、きな臭い歴史小説のような時代だったみたいです。

ドライブの途中、勝連城に立ち寄った時、10名ぐらいの上品なグループがガイドの説明を聞いているのに出くわしました。『ももとふみあがり』との単語がでるので、『悲運の美女-百度踏揚』のファンとしては、聞き逃す訳にはいかず、近くに寄って耳をそばだてました。
ガイドの先生の話だと、踏揚は、愛人の鬼大城とともに、勝連城主の阿麻和利のもとに嫁入りしてきた。鬼大城はその時、妻や子どもがいたが、別れさせてつれてきた。
阿麻和利も承知で、自分(阿麻和利)の妻や子は宮城島に移し住まわせた。という内容でした。
阿麻和利の妻子が宮城島に住んでいた事は、聞いたことはあるのですが、嫁入り前に踏揚と鬼大城が愛人だったとは初耳でした。百度踏揚のファンとしては、納得できず動揺しました。

踏揚は、15歳頃に阿麻和利のもとに政略結婚で輿入れします。
2年後頃におじいさん.護佐丸が、父.尚泰久王の命により、夫.阿麻和利を大将とする王府軍に攻められ、亡くなります。
夫.阿麻和利が、父.尚泰久王に謀反を企てていることを知り、鬼大城の助けを借り、命かながら勝連城を抜け出し、首里城に報告します。鬼大城を大将とする王府軍に勝連城が攻められ夫.阿麻和利が殺されます。
王に即位するはずの兄達が、首里城から追放され、腹違いの尚徳が王になります。
尚徳王は若くして謎の死をとげ、10歳に満たない甥は殺されます。
結婚した鬼大城が、クーデターを起こした金丸派王府軍に殺されます。
踏揚は玉城(たまぐすく)に逃れ、その後ひっそり余生をおくります。

どのような思いで過ごしたかと想うと『悲運の美女-百度踏揚』ファンになってしまいます。


神様のお墓
海中道路から浜比嘉大橋を渡り比嘉集落に行くと、
アマンジと呼ばれる海に突き出した小島があります。
ここには、別名・アマミチュー墓と言われ、琉球の祖神アマミキヨ、シネリキヨの二神をはじめとする神々が祀られています。(下の写真)
上記(べーべー嶽)の沖縄民族の祖先・創世の神アマミキヨとシネリキヨのお墓です。

神様のお墓? 神様はお隠れになるもので、沖縄の島々を作った神様の墓が有って良いの?
チョット私の感じている神様の概念と『アマミキヨ』は少しずれています。それをアレコレ調べ考えて、近づける作業を想像するとワクワクします。
『二神をはじめとする神々』とのこと、多くの神様が祀られているらしいです。どんな神様がいるのだろう?

神様の居住
浜比嘉で、アマミキヨとシネリキヨの居住跡といわれるのがシルミチュー霊場です。
シルミチューの語源はシディーン(生まれる)とチュ(人)らしく、神がこの洞窟で子孫をもうけたことからシルミチューと呼ばれるようになったと言います。
大きな洞穴で、洞窟内には女性を象徴した鍾乳石があり、子宝の願かけを行う拝所としても知られています。
この日も、母と娘の2人づれが、子宝の願かけに重箱を持って来ていました。サクが開いていたので、中のお堂も見ることができました。静寂で神秘的な空間でした。
アマミキヨとシネリキヨの住居と言われている場所は、シルミチュー以外に、
今帰仁村「クバの御嶽」の山の西側斜面の麓に「プトゥキヌイッビヤ」と呼ばれる洞窟があり、昔「アマミキヨ」が3男2女を産んだ場所という言い伝えがあります。
南部島尻の玉城中村渠区にあるミントングスクは、アマミキヨが沖縄本島に渡ってきて最初に住み着いた地といわれています。ヤハラヅカサに上陸したアマミキヨは、浜川御嶽に仮住まいをしていたが、やがて丘陵部へ進出。グスク(城)を築き、安住の地としてここに住み着いた。そして、この地で子孫が繁栄して沖縄中に広がり、その末裔がミントン家といわれています。
ミントングスクの近くに有る玉城城跡は、アマミキヨが築いたといわれる伝説の城で王朝時代は国王自ら五穀豊穣等を祈願した由緒ある場所です。
親田御穂田は稲の発祥の地とされています。稲の種をくわえた鶴は力尽きて、南部の新原(南城市玉城)の泉へと落下。その泉で稲が発芽したのを発見したアマミキヨの子孫、阿摩美津は、受水・走水の御穂田、親田に移植し、育て方は神様から教わったというのが始まりだと伝えられています。その阿摩美津の直系の子孫がミントン家で、神面が代々伝わっています。祖神・アマミキヨを模した面だといわれています。先の沖縄戦で焼失。明治・大正時代に記録されていた資料を元に仏師により現代に復元され、2009年5月25日に神面の仮奉納の儀が行われました。(下の写真)

角があります。これって『鬼』ですか? 見た時、とても驚きました。
でも、何かの本に、『角の有る動物は草しか食べない。肉は口にしない。』と書いていたのを思い出して、すこしホットしました。牙は無いみたいですし。外国の農業の神様、穀物の神様、神農様にも、角が有ったような、顔が牛みたかった様な気がします。
アマミキヨはオモシロイ。興味のつきない神様です。また書きます。
『アマミキヨの神面・奉納の儀』http://ryuqspecial.ti-da.net/e2689393.html


アマミキヨには、その他、多くの説や話があります。
(アマミキヨ=卑弥呼=アマテラス) ゴホウラ貝輪で有名な瀬戸内短期大学教授 名護 博 氏の『赤椀の世直し』http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/index.html
(邪馬台国は沖縄だった!)海底遺跡.地震予知で有名な琉球大学名誉教授 木村政昭 氏『卑弥呼と海底遺跡の謎を解く』http://dairoku126.exblog.jp/15078179/


続き--- 次回は何時るのか解りませんが続きます。